コラム第一回
〜ゲームってどうなんだ!?〜

ゲーマーの受難

突然だが、私は1982年生まれである。「魔の15歳」といわれた世代である。かの「サカキバラ」と同い年である。 当時の非行少年や異常行動をする人の1部がゲームをやっていたというだけで、「ゲーマー=変」とされてしまった。 それに拍車をかけたのは、あるハイジャック事件である。『実際の飛行機を操縦してみたかった』という動機で、 人まで殺している。その犯人が「フライトシュミレータ」が好きで起こした犯行なのであった。 これによって一気にゲーマーの立場が危うくなった。リアルなゲームや暴力的なゲームは白い目で見られ、 ゲームをする子供は一括して「危ない」と認識された。そこで受難であったのが私たちの世代である。 皆さんは「全校集会」なるもので身に覚えのないことでああだこうだと言われませんでしたか? 私の学校では特になかったが、友達の学校では「皆さん、ちゃんとした人間として学生生活を送ってください」 と言われたそうだ。かなり失礼である。私たちは人間だ!と叫びたくなる。 それに、テレビで「ゲームがいけない」「ゲームの世界と現実が区別できなくなる」「そういう環境に子供をおいては いけない」などとのたまっている学者連中まで現れた。環境のせいならば、「私も壊れている」のか? 「ゲームの世界と現実が区別できなくなる」のは個人の問題である。そいつの脳の問題で、決して環境に甘んじて 自己正当化してはいけないことであると思う。今は若干落ち着いてきているが、少年犯罪が起こる度に この話題は尽きない。ゲームをする人の受難は続くのだろうか。

しかし気をつけなければいけない

だからといってゲームを全肯定してはいけない。幼い子どもには親なり何なりが、ゲームと現実の区別を 教え込まなければいけないのではないだろうか。私の親戚の小学3年生は、三国無双なる作品でかなり過激に 人を殺していた(もちろんゲーム内)。ここで私のいとこは、この子どもに『これはゲームなんだから、 本当にこんなことをやってはいけないよ、絶対に!!』とかなり強い口調で言っていた。 これがあることで、ゲームを趣味や娯楽である位置にとどめておける重要な要素である。 まっこうからゲームを否定するのではなく、まわりの大人がゲームの本質なり意味なりを理解し、子どもにきちんと 現実とのギャップを説明することをやらなければいけない。ゲームとは「サブカルチャー」なのだから。

メインカルチャーに侵食する馬鹿者ども

前章で取り上げた「サブカルチャー」というのは閉鎖的・狭義的な下位文化のことである。若者文化ややくざ文化 なんかが典型だろう。ゲームはそんな「サブカルチャー」に属する。しかし、メイン(つまり社会に対して、 支配的にも影響しうる文化)に侵食する馬鹿な奴も出てきた。電車の中でゲームをする人、街中でコスプレする人などなど…。 この人たちははっきり言って「馬鹿」である。サブカルチャーを堂々と公共にもちこんではダメである。 先にも言ったがサブという事は「閉鎖的」なのである。社会の大多数が共感しえない代物がサブなのである。 なのにその社会のど真ん中「公共」で自分のサブをひけらかすのは、「私は恥辱心のかけらもない」と宣言している のに等しい。恥辱心は人間の理性に直結している。理性は人間の特性であり、悩みの素でもある。それが自分の 脳で機能している人はサブをメインに侵食させたりはしない。反感を持つ人はこう考えてほしい。 <自分がもっとも嫌い、もしくは自分にはまったく縁のない嗜好を、自分が乗っている「エレベータ」でやっている 人がいたら>と。イヤでしょう?メインに侵食するという事はこれと同類項でくくれてしまうということなのだ。

結局ゲームってどうなんだ!?

つまり、ゲームというのは娯楽の階層に位置付けるものであり、そこにとどめていかなければいけない。 ゲームというのは本当に楽しい。ゲームを全否定する人がかわいそうになるぐらいにである。 大いにプレイしてもらっていい。危険は少ない遊びであるし、何よりも進歩的で刺激的だ。 だが、あくまでもサブであることをまず大人が理解しなければいけない。それを子どもに教え伝えていかなければ いけない。今の時代の家庭は教育力が乏しい傾向にあるが、ゲームをプレイし理解している世代である親も多い。 だからこそ子どもがゲームを楽しむ心もわかるだろうし、ゲームと現実のギャップを教えていけるはずだ。



著者:acespymata

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